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「「死」が見えづらい世の中でー葬儀から問われる人間の相―」( 同朋新聞12月号)を読んで。
「別院奉仕研修」や、門徒宅でのご法事などで、近年よく話題になることがあります。それは「葬儀が変わってきた」ということ。
マスコミ発の情報では、近年、都市部を中心に、以前では考えられないような葬儀の簡素化・変質が起こってきていると言われます。
 
本山発行の『同朋新聞』12月号に、葬儀をテーマとした記事が載りました。以下は抜粋です。
 

《葬儀が消えつつある》…教勢調査では、ここ十年来の葬儀の執行回数の増減について、「増えた」と答えた寺院が6.6%であったのに対し、「減った」と答えた寺院が36.9%という結果が出されました。その理由として「門徒の減少」などが挙げられていますが、「葬儀自体の不執行」(直葬)の増加も一つの要因であることが報告されています。…葬儀が消えつつあるこの現状の背景には、一人ひとりが「死」を身近に感じることが少なくなってきたことが一つの要因としてあるようです。…
 
《共同体の崩壊》…共同体の崩壊は、経済発展、経済優先の中で進んできたといってもいいでしょう。お金でなんでも解決できる社会の流れの中で、煩わしい・都合の悪いことは専門家に委ね、自分が関わることがなくなってきました。特に「老病死」を嫌い、その問題に向き合おうとしない態度を生み出してしまったのです。
 
《マニュアル化の中で》…高齢化が進む現代社会の中で、自分のことを整理し、死後の不安を少しでも解消することや、子どもや孫に迷惑をかけたくないという思いで「終活」を行うことは大切なことです。…小沢牧子さんは、この現状に対して「死の商品化は今にはじまったことではありませんが、老いと臨終と死がパッケージされた効率的商品「終活」は、人の関係のさらなる貧困化が行き着いた先を露骨に示しています。個人用に作られたエンディングノートは、その象徴のひとつです。本来、人の死は、人をつなぐものです」と警鐘を鳴らしています。…
 
《生死を並有するもの》…「死も亦我等なり」ということについて、故・二階堂行邦さんは、「「死もまたわれらなり」という眼を開くにはどうするか。自分にとってかけがえのない大切な人の死を看取り見送るという悲痛な体験が、その眼を開く契機となる期があります。治る見込みのない病を看取るほど自分の無力を感ぜしめられることはない。…自力の計らいの無効なることがいのちの本質なのでありましょう。そのことを大切な人が教えてくれるのではないでしょうか」と話されています。…
 
《葬儀から問われる人間の相》普段私たちはなかなか「自分とは何か」「生きるとは何か」といった人間の根源的課題に目を向けることができません。しかし、私たちは本当に自分の力ではどうにもならないことをとおして、人間存在が問われてくるということがあります。「死」や「葬儀」はまさにその大切なご縁です。…
 
巷で多用される「共に生きる」という動作のうちには、死者たちをも招き入れることが含まれてくるはず…。
「共に生きる」ことが大切なキーワードとされている時代にも関わらず、葬儀の意味が伝わっていないとしたら、大変な矛盾ではありませんか。
 
以前より、核家族化に伴う共同体の崩壊の問題は指摘されてきました。葬儀についての意識の変容についても、その文脈で語られることが多いと感じます。
それももっともですが、もっと卑近な原因もあると思うのです。それは、お坊さんの側があまり触れたがらない金銭面。
 
葬儀は直接の対象になりませんが、先日、ネット通販最大手のアマゾンが、自宅・お墓などに出向き、法事法要(読経・法話)を行うサービスを販売し始めました。もちろん料金は明示されています。
以前からこのようなサービスを行う会社はありましたが、アマゾンが扱い始めたということで、一部マスコミでも報道されました。
そういえば以前、「イオン葬儀」スタートにあたり、お布施を定額で設定したことに対して、仏教界からの反発が起きたことも記憶に新しいですね。
 
定額ということについて、初めてインドに行った時の体験を思い出しました。日本では100円のコーラが露店で50円で買えて喜んだのもつかの間、同じ露天商が現地の人には20円程度の値で売ったのです。当然のようにクレームを入れたのですが、「お前は喜んでいたじゃないか」「お金は持っているんだろう?」の一点張り。
その時になぜか合点したのです。それはつまり、商品の価格は購入者が納得して払った時点で確定するということなんだな、と。最初から定められている価格とは、一つの目安にすぎないのだ、と。
 
お布施の額が問題になるということは、とりもなおさず、それに見合うものを受け取っていないという、布施者のサインでしょう。
もちろん、商品の価格とお布施とを、同列で論じるべきではありません。
しかし、「戒名代として幾ら要求された」「葬儀代として幾らを提示された」という話が、お寺と葬儀に関わる問題点として伝わってくるという事実があります。
その辺りのことを語り合うことなしに、葬儀の変容にいては語れない気がし始めました。どうでしょう?(広報部門 生田亮)
 
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東本願寺電子ブックまで。
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